指輪

指輪という歌がある。

 

なぜ 左手の薬指にしているの

友達が訊くんです

私が20歳の誕生日に 自分で買ったの

誰にも貰えそうにないから

 

これは身障者の女性の作詞であるという。中学生の頃、音楽の授業にて知った曲だ。

 

あまりにも悲しかった。私もそういう未来を迎えてしまう予感があったからだ。

 

私には家庭がよくわからない。記憶がある頃には父親はおらず、母親は病気で朦朧としていた。これまで、安心して家で眠ったことはない。いつまで私はここにいられるのか、次はどこへ行かなければいけないのか。毎晩悩み、不眠症だった。現在もだが。

 

そういった環境だったからか、ウェディング関連のものを見ると胸が苦しくなる。私が、どんなに頑張っても、叶わない夢だと感じてしまう。家庭を知らなければ、家庭を築くパートナーとして求められることなどないのではないか、と。

努力をして何かを手にいれることは得意だ。しかし、誰かに損得なしで愛された記憶がないことは、努力では埋められない。

 

30年生きてきてそれなりに男女交際も経験した。しかし、ついぞ結婚が具体化するどころか、相手の親にすら会う機会はなかった。

私には何か、大きな欠損があるのではないか。それを埋めようと、小綺麗にしよう、働いて自立しよう、美しく暮らそう、つとめて生きているし、ある程度は自信もある。

 

しかし、それは逆効果なのかもしれない。自分で指輪を買うようなものなのかもしれない。私は、ずっと、安心したかっただけなのに、なぜこんな遠い場所へ来てしまったのだろう。ただ、明日の心配をせずに誰かと眠りたいだけなのに、どうしてなんだろう。

でも今さらこれまで積み上げたものを放り投げたりはできない。

 

私もありきたりな人間なのだから、美しく着られるうちに純白のウェディングドレスだって着たい。でも、私はどんどん老いていく。

ずっと一人で生きてきた、誰も信じられずに、一人で、でも、それは、とても厳しいことだ。

 

私には手の届かない幸福を見るたびに泣きたくなる。私には座れないウエハースの椅子。 

あたりまえのようにその幸せを信じられない時点で許されないのだろうか。

 

街ゆく多くの女性と自分との間に隔たりを感じる。私だけが大きな欠損を抱えているかのように。

生まれた環境で規定されてしまうかのように。

そんな悲しいストーリー、私はそのまま受け入れたくはないのだ。

ウエハースの椅子だって、座れないとは限らない。

ゲル状の自我

 私には実体がない。

私には、私の容貌を思い出すことが困難だ。

私には、私という確たる自分という主義主張もない。

 

自分をおそろしくぶよぶよの何かに感じることもある。一方で、可愛らしいと思うときもある。

自分のことをとても頼りになる好ましい人間であると感じることもある。一方で、生きていくことすらままならない存在に感じることもあるのだ。

 

周りから規定された評価、そんなものは瞬間瞬間、環境で移ろいゆく。

それにすがりたくなるときもあるが、すがれるほどの度胸もない。

自分が下す評価がもっとも恐ろしい。

 

いつだってどこに投げ込まれるかわからないという不安のなかで生きてきた。与えられた、流れ着いた環境から逃げる度胸がないのなら、順応するしかないからだ。

かといって順応できるほど器用じゃないので、徐々に自分が溶けてよくわからなくなってしまった。

 

私は自分をゲルのようななにかだと感じる。こんな状態のものを、信じらるのだろうか。明日の自分は形を保っていられるのだろうか。

いつかどろどろに溶けて何もかもを崩してしまいそうだ。

自分の容貌を思い出したい。

「ホリー・ガーデン 」と不幸と幸福

"晴天とは、どちらかといえば不幸に似ている。それも、恒常化してしまった穏やかな不幸に。"

これは、一番好きな小説である、江國香織著「ホリー・ガーデン」の一節である。

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 昔、幸福とはめくるめく極彩色のあかるい何かだと考えていた。しかし、主人公の果歩と同じ年になった今は思う。幸福と不幸はよく似ているし、幸福は至ってつまらないものなのだと。

 

 「ホリー・ガーデン」には対照的な二人の女性の関係を軸に描かれている。5年前の失恋に囚われたままの柔らかな眼鏡屋店員・果歩と、不倫に充足している硬質な美術教師・静枝。

 

 何より時間の描写が美しい。雰囲気のある邦画を観ているかのようだ。果歩の作るグリーンピースごはん、紅茶茶碗がわりのカフェオレボウル、中庭のブランコ、美術室、ケーキが焼ける匂い。

 美しい背景のなかで、ゆっくりと二人の穏やかな不幸は進んでいく。それは幸福と呼んでも良いのかもしれない。二人は互いに相手を思い、誰よりも相手の幸福を願っている。その存在がいること自体が、幸福と呼べるのではないかと思うからだ。

 

 二人が囚われたのは、恋愛ではなく時間だった。果歩は津久井との甘やかな記憶のなかに、静枝は美大の仲間たちとの記憶のなかに。

 果歩を記憶から連れ出すのは、果歩を慕う健気な年下男子・中野くんだが、静枝は実はすでに不倫相手・芹沢によって既に連れ出されているのではないだろうか。

 静枝の不倫関係の継続は不幸と捉えられがちだが、必ずしもそうとは言えない。芹沢なくしては、静枝は元カレであり親友でもある祥之介に依存したままだったのではないか。

 記憶に囚われたままでいることは、必ずしも不幸ではないのだ。また、記憶から脱したとしても必ずしも幸福に向かうわけではない。

 それでも、終盤の果歩と中野くんとの関係には安堵させられる。読み進めるうちに、あたかも静枝のように、果歩をずっと傍で見てきたかのような気持ちになっていたからだろう。もちろん、中野くんがずっと忠犬さと公でいる保証なんてない。けれども、果歩にはもう食器の破片が散らばる浴室にうずくまっていてほしくないのだ、私は。

 

"おおこれは砂糖のかたまりがぬるま湯の中でとけるやうに涙ぐましい"

 これは作中で果歩がたびたび引用する、尾形亀之助の詩だ。まさにこの作品に漂う空気そのものだと思う。

 綺麗に整えた爪を見て、大人なんだから泣かないと自分に言い聞かせる果歩。芹沢に似つかわしい女であろうと、朝ごはんを食べる静枝。マンションの下で果歩を待つ中野くんも、正しく風邪をひく象足も、この作品に出てくる全ての人は等しく涙ぐましい。

 

 「ホリー・ガーデン」の刊行は1994年、何と20年前だ。眼鏡屋を訪れれば果歩の気配を感じるほどに、区民プールに静枝の気配を感じるほどに決して色褪せていない。

 静枝と果歩が暮らしていたアパートの中庭のブランコにも、いつだって帰れる気がする。


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 気付けば私も、初めてこの作品を読んだ14歳の時から15年間、「ホリー・ガーデン」に流れる時間に囚われていたのだろう。