「ホリー・ガーデン 」と不幸と幸福

"晴天とは、どちらかといえば不幸に似ている。それも、恒常化してしまった穏やかな不幸に。"

これは、一番好きな小説である、江國香織著「ホリー・ガーデン」の一節である。

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 昔、幸福とはめくるめく極彩色のあかるい何かだと考えていた。しかし、主人公の果歩と同じ年になった今は思う。幸福と不幸はよく似ているし、幸福は至ってつまらないものなのだと。

 

 「ホリー・ガーデン」には対照的な二人の女性の関係を軸に描かれている。5年前の失恋に囚われたままの柔らかな眼鏡屋店員・果歩と、不倫に充足している硬質な美術教師・静枝。

 

 何より時間の描写が美しい。雰囲気のある邦画を観ているかのようだ。果歩の作るグリーンピースごはん、紅茶茶碗がわりのカフェオレボウル、中庭のブランコ、美術室、ケーキが焼ける匂い。

 美しい背景のなかで、ゆっくりと二人の穏やかな不幸は進んでいく。それは幸福と呼んでも良いのかもしれない。二人は互いに相手を思い、誰よりも相手の幸福を願っている。その存在がいること自体が、幸福と呼べるのではないかと思うからだ。

 

 二人が囚われたのは、恋愛ではなく時間だった。果歩は津久井との甘やかな記憶のなかに、静枝は美大の仲間たちとの記憶のなかに。

 果歩を記憶から連れ出すのは、果歩を慕う健気な年下男子・中野くんだが、静枝は実はすでに不倫相手・芹沢によって既に連れ出されているのではないだろうか。

 静枝の不倫関係の継続は不幸と捉えられがちだが、必ずしもそうとは言えない。芹沢なくしては、静枝は元カレであり親友でもある祥之介に依存したままだったのではないか。

 記憶に囚われたままでいることは、必ずしも不幸ではないのだ。また、記憶から脱したとしても必ずしも幸福に向かうわけではない。

 それでも、終盤の果歩と中野くんとの関係には安堵させられる。読み進めるうちに、あたかも静枝のように、果歩をずっと傍で見てきたかのような気持ちになっていたからだろう。もちろん、中野くんがずっと忠犬さと公でいる保証なんてない。けれども、果歩にはもう食器の破片が散らばる浴室にうずくまっていてほしくないのだ、私は。

 

"おおこれは砂糖のかたまりがぬるま湯の中でとけるやうに涙ぐましい"

 これは作中で果歩がたびたび引用する、尾形亀之助の詩だ。まさにこの作品に漂う空気そのものだと思う。

 綺麗に整えた爪を見て、大人なんだから泣かないと自分に言い聞かせる果歩。芹沢に似つかわしい女であろうと、朝ごはんを食べる静枝。マンションの下で果歩を待つ中野くんも、正しく風邪をひく象足も、この作品に出てくる全ての人は等しく涙ぐましい。

 

 「ホリー・ガーデン」の刊行は1994年、何と20年前だ。眼鏡屋を訪れれば果歩の気配を感じるほどに、区民プールに静枝の気配を感じるほどに決して色褪せていない。

 静枝と果歩が暮らしていたアパートの中庭のブランコにも、いつだって帰れる気がする。


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 気付けば私も、初めてこの作品を読んだ14歳の時から15年間、「ホリー・ガーデン」に流れる時間に囚われていたのだろう。