言葉

言葉というのはひどく曖昧かつ多義的なものだ。

 

例えば、「愛している」

それは、

A「私はあなたが刑事訴追されても弁護し続けるほど愛している」、「私はあなたに臓器提供できるほど愛している」

B「例えあなたがどこへ向かおうとも、あなたが私を愛しているならば、一生守りたい」

C「先のことなんてわからないけど、いま、私はあなたを愛している」

のどれもが想定できる。私は真性の重い愛なので、AかBの意味で用いている。だからCはちょっと寂しく思うが、ある意味誠実とも言えなくない。でもやはり寂しい。愛とは決意なのだから、先のことも決意すべきなのだと私は考えてしまう。

 

ここまではよい。心情が言葉になっているからだ。

だが、時として人は、他者を操作するために言葉を用いる。

それは以下のようなものだ。

E 「責任はとれないけど、愛していると言えば喜ぶだろう、まあまあ好きだし」

F「愛していないが、この人間に自分を好いていてもらうと気分が良いから言っておこう」

美しくない。書いていて悲しくなってしまった。人を縛るために偽りや無責任な言葉を吐いてはならないのだ、少なくとも私の価値観においては、それは許しがたいことだ。

 

無責任な言葉や、思ってもいない言葉を言わざるを得ないときがなかったわけではないのだ、私も。でもそういった言葉を口にしたそばから毒が回り徐々に自分を嫌いになってしまう感覚がある。

仕事で必要に迫られて(接客や上司とのコミュニケーションにおいて)ですら耐え難い。もしかしたらそれが困難な私は未成熟なのかもしれないとも思うが。

 

人を言葉で縛るのは簡単だ、でもそれは本心でないとならないのだ。かりそめの言葉による操作は、決してしたくはないし、またされたら許しがたい。

継続した行動と責任のある言葉は美しいし、信じることができる。

一貫しない言葉や、言動の不一致は人に不信感を抱かせやすい。いずれどこかでわかってしまうものだ。

 

言葉を使うことだけで色々な物事が簡便に進むとしても、私は行動によって示していきたい。

誰かを縛りたいと思うならば、それは私自身の思想および外観および生き方によってでありたい。

こういった考え方だと先々苦労するかもしれない、でも、こうしか私はできない。